株式会社亀沢屋社長 菊池 政文


私の修業時代



私の修行先は、学生時代の新聞奨学生時の専売所の2軒隣にありました。


東京都大田区久が原。その店(修行先)の豪華なチョコレート細工のディスプレイや見慣れないフランス名称のお菓子たちは、上京したての若造には異文化の、近寄り難い、敷居の高い存在でした。その後、配達員仲間がその店から購入した生クリームのバースデーケーキのお裾分けを頂き、その美味しさに感激し、一人で6号(約18㎝)のホールを一気に平らげた事もありました。ケーキの修行をするならここしかないと思っていて、そんな憧れの洋菓子屋に2年間製菓学校で学んだ後に就職できました。


この店は製造スタッフが常時10人ぐらいで、店の3階での寮生活でした。出身地・年齢・学歴・給料の異なるスタッフの間では諍いもありましたが、夜通し将来の夢を語り飲み明かした事もありました。


修行は仕上げ部門の見習いから始まり、パイ・デニッシュ部門・オーブン部門・バームクーヘン部門・ショコラ部門と進み最後の2年間はシェフを務めさせていただきました。


決して自由とは言えない修行生活の中で、思う存分自分が培った技術を発揮できるのが、コンテストへの出品作品を制作するための期間でした。この店はスタッフのコンテストへの参加を援助してもらえるお店で、もちろん通常の勤務作業が終わってから始めるのですが、材料も自由に使用でき、遅くまでの作業も許されました。シェフや先輩からのアドバイスを頂きながらコンテスト前日には徹夜をした事もありました。おかげさまで銀賞を頂いた事もありました。


今、振り返るとここでの8年間が私の60年の人生の中で最も濃厚な激動の時代でした。


亀沢屋に入社



ひょんな事から一緒になった妻の実家の亀沢屋に勤務したのが、平成に変わる1年前でした。


秩父に住む製菓学校の同級生が獅子鍋を振る舞ってくれるというので、泊りがけで秩父を訪れたのが最初でした。
友人2人で池袋から最終の急行レッドアローに乗り一路秩父を目指したのですが、秩父に近づくにつれ人家も乏しくなり、周りに明かりが少なくなり、夜空の星だけが目立つようになりました。「まるで銀河鉄道みたいだね!」なんていう野郎同士のロマンチックな会話も途絶えがちになり、心細くなった頃、突然闇の中から秩父の明かりが現れました。ほっとしたのと同時に、この地を訪れるのはたぶんこれっきりだろうと思ったのが、気が付いたら28年も住んでいました。因みに振る舞ってもらったのが猪豚鍋でした。美味しかったです。


この地の最初の住まいは、妻の両親に用意して頂いた、元和裁学校の一部を改築した住まいで、元学校なのでトイレが5個もあり使い放題、居住空間から少し離れていて夜に使用するのは少々勇気がいりました。広い教室が3つあり、物置には困りませんでした。困ったのは度々でかいムカデが出現する事、いつぞやは一つ枕で添い寝をしていた事もありました。


弊社は和菓子と洋菓子(Yショップから仕入れ)を置いていました。入社した当時は、1年後ぐらいに店舗を改装するまで和菓子をしろということで3か月ぐらい手伝っていましたが、どうしても洋菓子が作りたくなって、和菓子の作業が終わった後に洋菓子の製造を行なっていました。夜中に起きて明け方まで洋菓子を作り、和菓子の職人が出勤してくる前に仕上げを終えなくてはなりませんでした。この夜勤生活も続けているとしんどくなってきて、住まいに仮の洋菓子の製造所を作ろうという事になり、幸い教室が3部屋もあるので、そこのひと部屋を工場にしました。仮の工場ではありますが、冷凍庫、冷蔵庫、パイローラー、ミキサー、オーブン等ひと揃いそろえて製造を始めました。とても充実してはいたのですが、奇妙な事に気づき始めました。独り言がやたらと多くなっているのです。そしてたまらなく洋菓子製造にかかわる話を誰かとしたいという思いでした。


思えば8年間の修行時代は、常に大勢のスタッフが昼夜を問わず周りに居てくれたし、仕事上洋菓子の話をし続けなければならなかったので、それが骨の髄まで染み込んでいたのですね。当時は、各問屋の営業を捕まえてはだらだらと業界の話をしたものでした。当時の営業の方にはご迷惑を掛けしました。その後新店舗が完成し、工場も移転し本格的に始動し始めました。


その頃、心配になりだしたのは、この田舎では洋菓子の新しい情報が入手しにくいという事でした。業界誌も2種とってみましたが、生の情報・技術が知りたいと思い洋菓子協会に入会し、最初は協会支部に所属するシェフの方々と親交を深め成り行きで支部長になってしまい、協会理事になり、何かの間違いで副会長を1期務めましたが妻の病の看病と子どもの世話の為に役職を辞しました。


それから1年後に妻を失い気分的に冬眠生活に入っていましたが、そろそろ目覚めなければと己を叱咤激励しはじめています。



株式会社亀沢屋店長 坂本 美加


亀沢屋の伝統



和菓子の家に生まれた私。子どもの頃の思い出は、和菓子を焼き上げたときの甘い香り。物心ついた時は父も母も朝から晩まで働いていて、お昼時になると私も職人さんたちと一緒にご飯も食べていました。


亀沢屋初代の祖父は、私が物心ついた時には他界していましたが、祖母が最後に焼き菓子をひとつずつ包装していた姿を思い出します。


ともに生まれ故郷の新潟から埼玉にやってきた祖父と祖母。菓子職人として独立したかった祖父は深谷で修行した後に、ここ秩父郡皆野町で働きました。その後、お店を東京で構えようとしたのですが、その時に起こったのが関東大震災。そこで、亀沢屋があるこの場所で念願のお店を持つことになりました。初代は特に飴細工が得意で、たいそう人気になったようです。


亀沢屋は二代目の父の代になってからたくさんのお菓子をつくるようになりました。この辺りには工場があって、その工員さんたちもよく買いに来られていたようです。甘いものが求めれていたんでしょうね。かりんとうなんかも量り売りしていました。その後、今でも人気の千本桜というお菓子が大変評判になりました。その頃から、亀沢屋のお菓子も店売りだけでなく、よそにも置いて売るようになりました。


今、亀沢屋で人気のある麦こがしも二代目が考えてつくったものでした。お店によっては時代とともにお菓子の作り方を省力化したり、材料も変わっていったりするところがありますが、亀沢屋では昔ながらの手作りと材料にこだわっています。


たとえば秩父地方につたわる「酢まんじゅう」。その美味しさを出すには時間をかけてじっくり発酵させることが必要で、以前、そんなに手間の掛かるものならやめてしまえばとつい言ってしまったこともあるのですが、父は一切耳を貸しませんでした。本物の酢まんじゅうの味を求めるお客様が脳裏に浮かんでいたのでしょう。その酢まんじゅうの味は現在も昔ながらの味を守り続けています。また、母はこの亀沢屋をとても愛していて、お店の味を大切にしています。


菊地シェフを迎えて、亀沢屋も三代目となりましたが、お客様のことを考えながら材料と手づくりにこだわるやり方は初代から続く亀沢屋の伝統になっています。

評判のお菓子





















亀沢屋が大切にしていること

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